創業者:大野 孝次郎
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| 平床(篠原理髪店) 篠原定吉氏について | |||||||
| 平床は明治末の東京で普通のお店が十銭から十五銭という時代に料金が一円という 超一流の店であった。その技術と格式は日本橋の芳町にあって東京の下町の代表格とされ、山の手の大場と並んで双璧といわれた。 お得意様は場所柄、大店の旦那様や 兜町、穀物取引所などで相場に関わる方々、付近の芝居小屋など遊興施設から粋筋から芸能界、相撲界にまで及んでいた。 篠原定吉氏は大日本美髪会の中心的存在にあり、近代理髪の技術の普及と発展に尽力された。この店からは銀座の米倉近、田村町の海津正、日本橋の大野孝次郎など日本の近代理容教育史に大きな足跡を残した人物が育っている。 尚、米倉 近、海津 正は大野孝次郎の兄弟子にあたる。 |
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| 篠原 定吉 氏 | |||||||
| 大日本美髪会 | |||||||
| 断髪令が発布されるとこれまでの丁髷スタイルが禁止され男子は西洋の風俗に強制的に変えられたが、実際の所、髪型の転換には多くの時間を費やす事となった。 その原因の中には武士や商人などの抵抗もあったが、実は日本人の硬い髪を切る為の技術や道具、特に西洋ばさみや櫛などの普及が進まなかった事も起因している。 本格的な西洋理髪の技術を有する美髪店を利用できるのは貴族や大店の旦那などの一部の紳士に限られていた。 時代の転換期に西洋理髪の技術や道具の伝播に大日本美髪会の果たした役割は大きかった。尚この頃は調髪の事を美髪と称していた。 |
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