手のはなし

~ミスターナレッジの軽美学~

若い女性に男性のどこに目が行くかと聞くと「手」という答えが近頃は予想外に多くなった。男性の爪でなくて手そのものなのである。手にはタイプがあり、大別すると感受性の強い手と現実的な手になるかもしれない。それはさらに細かく分けられるのだが、手のタイプは必然的ではないが持主の体質と似ている。
人の手の成功は「親指をほかの指と向かい合うように発達させたこと」と動物行動学のディスモンド・モリスはいうが、確かにそれによって物を操作できるようになったのである。

 理容にもさまざまの道具がある。その道具で作業をするための作業しやすい持ち方があるはずだ。同じ作業するために格好良い持ち方もあるだろう。メイクアップでもアーチストによってブラシの持ち方はいろいろであるが、あまり持ち方を意識しない人がいればあきらかに意識した持ち方で、格好は素敵なのだが上手くできるのだろうかと心配させられる人もいる。これは若い女性が男性を見るときの視点とは違うが、道具を使って一つの仕事を長く続けた方の手には「職の業」としての手が感じられる。これは性別に関係のないことで「美の匠」といわれる女性伝統工芸士たちに手を見せてもらった時にも感じたことであった。

 メンズ・ネイルというメニューがある。男性の場合は女性のように華々しく華麗に爪を粧えないという問題はあるが、もうすこし爪への関心があってもいい。男性にネイル・ケアを進めるとなると理容の方以外に適任はいない。

 女性のことになるが、手は脚と違って漂い出るような魅惑に乏しい。本人の性格や暮らしが、顔以上に手に出てくるから、顔の奇麗な女性はいても手の美しい女性は少ないようだ。
いまフェルメールが話題になっているが、そのフェルメールの「真珠を秤る女」の手はいい。腕も含めることになれば、奈良興福寺の「阿修羅」の六本の手は実に魅惑的で、手の美しさが表現された仏像と思っている。

 西洋では特に手を大切にするのは挨拶が握手だからだ。でも西洋の礼儀は握手だけではない。男性が女性の甲にする挨拶にベーズマンがある。ベーゼ(くちづけ)をマン(手の甲)にする挨拶だが、唇を女性の手につけてしまってはいけないし、未婚の女性にしてもいけないとされている。
 初めてあった人と体と体を接触させることは日本の礼法にはないのだが、戦後握手の習慣が日本にもできた。その握手からいろいろなことを受け取るのは私だけではないだろう。

女性の場合手の甲が心持冷たくて掌が温かく、指先にそこはかとない冷たさが感じられる手をよいと思うのだが、冷たい手で握手をするためにハンドクーラーを使った19世紀のヴィクトリア朝時代の貴婦人のことで考える時がある。

握手のことは別にして手は清潔でならなければならないが、一般男性の手は清潔なのだろうか。流水で2.30秒洗ったとして菌量は8~120%残るという研究もある。洗ったのに120%というのはおかしいことだが、水で手指が濡れると爪・ひだ・シワなどのミクロフローラ(細菌叢)が手指の全表面に拡散するから…ということである。手を洗うとき指輪をしていたら、より丁寧に洗わないと菌が残るという話もある。
手をきれいにというとき手のひらをきれいにすることをかんがえるのが普通だし、啄木の「ぢっと手をみる」の手も手のひらだったろう。手は甲と爪をいつも綺麗にしておきたい。

 古代ギリシャでは手は人の体の中で最も尊い部分とされていたから、手を叩くことは良い気持ちを相手に伝える行為であった。それが明治以後日本に入ったといわれているが素晴らしいと感じたとき、その人の所に行って抱き合い肩を叩くようになったと聞いたこともある。拍手を多用するのは、拍手が近代以降に入った日本や中国だけという説もあることを付記しておこう。